最近、まじめにblogを書くようにしようと思っています。
私自身のために。
それで、blogを真面目に書いてると、やっぱり見る人って増えるのね。
私はあまりインターネットというものに詳しくないのだけど、書けば絶対300hit〜、というのが最近の流れ。それが多いのか少ないのか、もうさっぱりわからない。
わかっているのは。
450人以上が見てくれた幸せな結婚パーティの日記で、私がKularaのスペルを間違えていたことである。
450人も見てるんなら、ひとりぐらい指摘してくれてもいいんじゃあ……?
ファンの方、メンバーの方、すみません。
最近知ったし、スペルも間違えましたが、私もファンです。(ずーずーしー)
あと、CD貸してくれたダイスケくんに感謝。
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まぁそれはともかく、昨日の続き。
すごくひさしぶりに、鈴木いづみの本を読んだ。
初めて読んだとき「私の想いが、理想的なかたちで言葉になっている!」と興奮した。その興奮は、ページをひらくと、まったく色あせずにそこにあった。
両性具有願望? シジジイ? わたしは男でも女でもないし、性なんかいらないし、ひとりで遠くへいきたいのだ。
地球のおわりとか人類の死滅なんて、ねがってない。みんな、たのしく生きていてほしい。
-『ユー・メイ・ドリーム』
「いづみもそのうち、さびしくなるから」
「わたしはむかしっから、さびしい子だよ」
「そういうのではないのだ」と彼はメイソウ的にいった。
さびしいというのも、たまらないだろう。わたしはだれかといっしょにいてさびしい、と感じるのがいちばん耐えられない。だが、それにも疲労してしまって、もうなにも感じなくなるときがくるのではないだろうか。それこそ、自分に裏切られるときなのだ。自己というものを見失うときなのだ。
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わたしにいわせれば、幻想とはある特定の人物やことがらにたいして抱く、訂正することのできない大きな錯誤であり誤解である。幻想を持つことのできる人間、それを信じることのできる人間は、だから幸福なのだ。
わたしは、幻想をもつことすらできない。では、疲れきってしまったときは、どうしたらいいのだろう。
-『ふしぎな風景』
速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。細く長くか太く短くか、いずれにしても使いきってしまえば死ぬよりほかにない。どのくらいのはやさで生きるか?
-『いつだってティータイム』
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先日、算命学という占いをみてもらった。
それによると私は『太陽』で、みんなに対して同等の光で照らすという性質を持っているそうだ。凄くよくわかる。
それは、奉仕のココロとかいう、高尚な意味では決してないと思う。
たぶん。私は凡人なので、母親と野良猫が同時に溺れていたら、母親を助けようとするだろうし、今日の出勤中に地下鉄サリン事件が起こったら、誰のこともかえりみず、ひとりで逃げようとするかもしれない。
だけど、そういった場合を除けば、自分のまわりのひととそうでないひとの区別というものが、非常につけづらい。世界でおこっている悲惨なニュースと、私のまわりにふりかかる悲惨なニュースに、それぞれ移入する感情の量は同じである。そしてそれは、自分からの逃避だと先日の日記に書いた。
けれど、それが私の性質なのかもしれない。
あらゆることに対して、どうでもいいと思うことができる。もちろん、どうでもよくなんかないのだが。それは、とてもさびしくてこわいことだ。
私にはお金がないけれど、お金以外のものは全部持っているという気がする。つまり、物質的なものの象徴がお金という意味において。美貌も名誉も人徳も、概念的なものだからどうにでもなる。周りの人に恵まれて助けられていることは、確かなのだけど。そしてもちろん、自分が美人などとはこれっぽっちも思っていない。ブサイクだといじめられた過去を持っているので、その辺は現実をちゃんと理解してます。しかしそんなのは、それこそ、もっともどうでもいいことだ。
killieのファンジンを読んで、私が私としてとることのできるアクションは、一体何なのだろうとずっと考え続けている。
先日よしもとばななの『海のふた』を読んで、自分ができることの範疇について思った。大袈裟にいえば、自分の部屋の掃除もできないで、何が世界平和だ?ということだ。例えば色々なNGOのサイトを見たり、
FOE Japanのパンフレットなんてかれこれ半年は眺め続けているけれど、ファッションでNGO活動をするみたいなノリに、どうしても馴染めない。
リアルかリアルじゃないか、という点からすれば、ファッションはリアルではない。幻想だ。もちろん幻想の世界に生きて、それがリアルだという人もいるだろう。しかし私はそうではない。では、私にとってのリアルとは、いったいなんなのだろう?
そう考えると、何も残されないのだ。
とてもさびしくてばかみたいでつまらない人間だと、思う。
だけど困ったことに、私は『太陽』なので、常に持っている絶望や虚無感が明るいのだ。そこにおいては、愛情をたっぷり注いでくれた両親に感謝しなければならない。
そして『明るく絶望しきっているのがいちばん』『みんな、たのしく生きていてほしい』という鈴木いづみが、好きでたまらない。