何かの折に手相を見てもらう機会があると、私は仕事をするよりも、家庭を大事にしたりだとか、そういうほうが向いている、と言われる。
バリバリ働くキャリアウーマンタイプではないと。
仕事ができる人や意志の強い人には、薬指のあたりから、縦に線が入るらしいのだけど、私にはそれが全くない。濃ければ濃いほどいいようです。
そういう線は、生きていくうちにどんどん追加されていくらしいが、私の手には『生まれたときにあった3本の線』以外に、殆ど線がないのだった。
『バリバリ働くキャリアウーマン』なんてダサイものには、もちろん全然なりたいわけではないのだけど、昔から自己実現コンプレックスみたいなものだけは強い私なので、何かに依存するほど格好悪いことはないと、そういうことを言われるたびに少し落ち込んでいた。
それで、先日はさらに『周りの意見に左右されやすい』とか『自分を持っていない』とか『迷いやすい』とか『私生活のほうが大事』とか、そんなようなことを言われ。それについて否定も肯定もできない自分を持て余すのはそろそろやめて、ちょっと考えてみようと思った。
最近、家族で話す機会があったり、BALLOONSのアートワークをやらせていただいていること、色々なことがあったのも関係している。
自己実現というけど、私は私の人生をかけて、一体何をやりたいのか?
毎日ニコニコしてればいいのだろうか。
影響力を持ちたいのだろうか。
後世に語り継がれるような素晴らしいものを残したいのだろうか。
最高の美意識を自分の内側に作り上げたいのだろうか。
人にも環境にも優しい活動を通して、みんなが幸せになれるよう努力していきたいのだろうか。
どれも違うような気がする。
しかし確信が持てるのは、私にとってBALLOONSのアートワークとか、ライター業とか、こうしてblogを書いたりすること、仕事をすること、好きな人と話すこと、そういったことが全て等価であるということについてだ。
そこについては異論がないし、それについて不満もないし、自分のおおいなるパーソナリティであると断言できる。
だから何なんだという話だし、それは偉いことでも恥ずべきことでもない(と思う)けれど、こういったことと『周りの意見に左右されやすい』『迷いやすい』ことは、視点こそ違えど、同じことを言っているように思う。
周りの意見に左右されることと、自分を持っていないことは違う。周りの意見に耳を傾けて、自分をつくっていくのだ。それは媚びることとは違う、断じて。
みんなが幸せであればいいなんて『思っていない』。
そしてそれと同じぐらいの強さで『思っている』。
そして『みんな』という曖昧な表現のなかに、私も、私の好きなあの人も、まだ会ったことのない誰かも、同じように含まれている。
絶対的な絶望感を、明るく持つことが大事だと思う。
そんな私が社会のために働けるはずがないのだ、そもそも。『生まれたばかりの子供みたいな』私の手相の説明もつくというものだ。
今まで生きて来たことや、直接的にも間接的にも関わってくれた人たち、この世の中全体に、感謝の気持ちはものすごくあるし、それを何かの形で還元したい。そういう思いはとても強いと思う。境界線なんてないし、どうでもいい。多分、仕事ができないほどの欠陥ではないにしても『上手くやる』ことは難しいのかもね。しがらみを生き抜くこととか、ゲームのように競争を楽しむこととか、いくつもの顔を持つこととか、そういうのを全てリアルでやろうとするのだから、消耗は激しい。
最近気になるのは『エコ』とか『環境』とか『人のために』『地球の未来』……、そういう活動を、100%いいことだと思ってやっている風潮。
マクドナルドの0円スマイルみたいな、貼り付いたような表情で。
なんだかおかしいなと思う。そして反吐が出そうになる。
そんなきれいなものだけで人間が形成されてたまるか、という思いが私の中にある。
シンメトリーな状態は自然ではない。
沢山の人の汗と涙と魂の犠牲があったうえでできあがったものなのだ。
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ところでアニヤのバッグを間近で見る機会がありました(駅のホームで)。
エコバッグって、一体なんなんだっけ?そもそもエコバッグで最も大事なのは素材なの?プラスティックでできていたらダメなんだっけ?じゃあコットンなら何でもいいんだっけ?それから、エコバッグって、安価にする必要はどうしてあったんだったっけ?
つくづく、考えさせられる事件だったのであります。