we are family
1月2日のこと。
三軒茶屋に無印良品があるんですが、福袋を販売するらしく、開店前に20人くらい並んでいるのを目撃。へーとか思って通り過ぎたのですが、再び通りかかると丁度開店の時間で、店が開いたんですね。
その時点で50人は並んでたと思うんですが。若者、中年夫婦、様々です。
面白そうなので見てました。
入り口すぐの場所に福袋が陳列されていたんですが、中身が見えるんですね。で、価格設定がとりあえず内容の1/10以下という印象(遠目なのであくまで印象ですが、とにかくお得って感じ)。みんなそれはわかっているみたいで、見えなくてもとにかく掴む!掴んでから中身を確認。もの凄い勢いでした。どれだけ出ていたかはわからないけど、多分15分くらいで完売じゃないでしょうか?ひとり3袋は当たり前、5とか6とか持ってる人もいました。
オイルショックってこんな感じだったんだろーなー、みたいな。
傍から見ていて非常に怖かったです。
1月1日のこと。
同居人の実家で恒例の新年会があったんですが、彼は4人兄弟であり、その家族なんかが集合しちゃうので基本10人越え。今年はそれでも少なくてジャスト10人だったんだけど、並ぶ料理の量とか、それが減る速さとか---さすがにもうみんな大人なので、大皿料理争奪戦みたいなことはないのですが、それでも普通に減るスピードは速い。そういったものが一人っ子の私には想像がつかないスケールなんですね。
大皿から自分が食べる料理を取り分けると「それだけでいいの?」とか訊かれたりするんですよ。
それで同居人が「この人は生存競争のなかで育ってないから」って。
あーそーなのかなーって。
今確保しておかないとなくなる!みたいな危機感は確かにないなと。
私は自分でハングリー精神に欠けると思っているし、そこが短所だという自覚もある。あまり争いが好きではない。
それには、生い立ちが非常に関係しているんだなと思いました。ぼやぼやしてるとやられる!という環境に身を置いたことがない。裕福で、欲しいものは何でも買ってもらえる、といった環境ではなかったけれども、(広義での)飢えや危険はなかったというか。
だから福袋に群がって「私が私が」って他人を押しのけて争奪している光景とか、凄く好きじゃないし、怖いなと思ってしまいます。
でもそれは、混んでる電車で少ないスペースに無理矢理座る人とかいますよね?ああいうのに対する「浅ましい」「美しくない」「オバサンて嫌よねー」みたいな感情とはちょっと違うように思う。実際私は全然優雅じゃないし美しくない。ひとりで表参道を歩きながらリンゴ飴を平気で食べれる人間です(買っちゃうのは絶対シロの影響だな……みたいな)。
もっと、人間の本能的な部分に疎いような感覚ですね。
性欲、食欲、物欲、睡眠欲、etc。まぁ性欲はともかくとして、ちょっと欲しいなと思えば満たされる環境にずっとあって(それは自分を納得させるという意味も含めて。最終的に丸く収まるという感じ)、それは今でもそう。だからどっちでもいいというか、極限で爆発するようなことがない。そういうことに対する恐怖感みたいなものが非常にありますね。
常に何かに飢えているような感覚とか、それを記号に変換してゲームのようにしてしまう感覚とか、そういうのが凄く怖い、想像もしたくない、というか。それは反戦とか水俣病の映画を見たり、尾崎豊の歌を聴いたりしたくないという感覚に似ている。
凄くデリケートな問題なので(一般的に)、あまりうかつに結論は出せないなという感じなんですが、精神的に貧乏臭いのが嫌いというのは単純にあります。それが『笑えなくなったら終わりだ』ということでもあるし。そこにおいて、物質的/物理的に満たされているかどうかというのはあまり関係ないと思っています。精神の問題です。
とはいえ、精神の極限に追い込まれたことがないというのも事実であり、そこは今後の課題のような気がする。信じられないくらいの空腹とか、信じられないくらいの快楽とかね。なんというか、今年は地球がテーマなので。まぁ愛でもいいですよ。未来とか。社会とか。そういうの今私にとって全部同義です。でも宇宙は違う。ANOTHER WORLDじゃまずいわけです。リアルじゃなければ。そのためには、極限から目をそらさないことが大事のような気がする。
もちろん、ここに書いてる段階は、まだ机上の論理に過ぎないわけだけど。
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ところで、
KLOMAが解散です。
それについてどうこう思うことはないのですが、この文章を読んでると涙が出ます。これからもずっと大好きだと思います、遥ちゃんが。